教育を考える 2018.6.6

【夢のつかみ方】日本テレビ報道局政治部記者・右松健太さん(後編)~報道記者として鍛えながら、なおも夢を追い続ける日々~

【夢のつかみ方】日本テレビ報道局政治部記者・右松健太さん(後編)~報道記者として鍛えながら、なおも夢を追い続ける日々~

アナウンサーとしてバラエティや情報番組などさまざまな番組に出演した後、『NEWS ZERO』のキャスターに就き、一つひとつキャリアを積み重ねた日本テレビの右松健太さん。13年間のアナウンサー人生における実績が会社に認められ、報道局への異動がかない、子どものころから抱いてきた報道記者になるという夢をついに実現しました。いよいよ報道記者という肩書を手にした右松さんですが、その仕事には憧れだったからこその難しさがあったそうです。

構成/岩川悟 取材・文/渡邉裕美 写真/玉井美世子

一から学び直した報道記者としてのライティング技術

13年間のアナウンサーのキャリアを糧に臨んだ、報道記者の最前線。視聴者からすれば「ニュース」や「報道」はひと括りに見えても、担当パートによって必要なスキルは大きく異なるようです。

「原稿を読むことはできても、書くことができなかったんです。原稿を丁寧に正しく読むことがキャスターの務めですが、読むためのニュース原稿を書くのがこんなに大変なのかって(苦笑)。異動が決まったときから、辛苦をなめることになるだろうと一抹の不安はあったのですが……」

『NEWS ZERO』のスタジオで毎晩向き合ったニュース原稿。それをスラスラと書けない自分を目の前にして、右松さんは現実を思い知らされることになったのでした。

「これまでたくさんの記事原稿を読んできたにも関わらず、いかに記事の本質を見ていなかったのか思い知らされました。いつ・どこで・誰が・なにを・どのようにした……の基本の事実に忠実でありながら、発展させて伝えるのが記者の役目。それに加えて、事実が起こった現場を知らない視聴者には見えない風景を自分なりの視点で伝えたいのに、その原稿が書けないんですよね。つまり、記者の目線を原稿にのせる以前の部分でつまずいてしまった。資料をもって取材にまわって、いざ原稿を書こうとしたら、記事に必要な情報の順番やルールすら迷うことも多々ありましたよ。自分でも『まいったな……』と思いながらの日々でした。警視庁記者クラブに配属された30代後半は、報道記者として基本を一から学ぶことになったということです」

それにしても、報道記者志望だった右松さんは、なぜアナウンサーとして就職したのでしょうか。就職活動で報道記者志望としてエントリーをしていれば、もしかしたら夢に向かって迂回する必要はなかったかもしれません。運命を左右したのは、友人の何気ない一言でした。

日本テレビ報道局政治部記者・右松健太さんの夢のつかみ方後編2

子どもの知的好奇心を育てる3つのポイント
PR

経験のすべてが夢をつかむ道につながっていく

「大学3年生であらためて将来の夢を考えたとき、憧れだった報道記者になろうと心に決めました。そのために、マスコミ就職志望者向けの塾にも通いはじめました。塾で知り合った他大学の友人らとお酒を片手に夜通し議論をしたのは本当に楽しかったですね。夏休みは、毎日セミナーに通って論文を書いたりしたこともあったかな。そんな風にして一緒にマスコミ就職を目指した友人から、『日本テレビのアナウンサー試験を受けてみたら?』と言われたのが、僕がアナウンサーになったきっかけでした。というのも、アナウンサー試験はテレビ局の新卒募集で、もっとも早い時期にエントリーがはじまります。ならば、『就活のキックオフ的な感じで受験しよう』と。数千人規模が受験する試験で選ばれるには、運も面接官との縁も必要だと思います。そのふたつがたまたま巡ってきたので合格できたのかもしれません」

運や縁を後押ししたものは、こんなポジティブ・マインドだったのでしょう。

「面接試験では、憧れのメディアで働く大ベテランの方々が大学生の僕の話に15分間も耳を傾けてくれるんです。これって、考え方によっては凄いことですよね。こんな経験ができるチャンスはめったにないと思って、当時自分なりに感じていた政治や社会情勢のことを大いに語りました。気をつけていたのは、複数回ある面接毎に話すことの齟齬がないようにということ。それから、カメラテストの試験ではとにかく間違いがないように原稿を読むことでしたね」

実際、カメラの前で話すのはなかなか難しいもの。それでも堂々と試験に臨めたのは、大学時代のアルバイト経験が大きかったようです。

「大学の4年間は、古典の塾講師アルバイトをしていました。大学受験を控えた高校生10~40名を前に週3回、“緊張感あるライブ”をしていたので、人前で話すことに比較的慣れていたんですね。しかも、塾講師は生徒からの支持を得ることも大切な要素のひとつです。教えるためには、まず生徒から選ばれないといけない立場だったので、アルバイトとはいえ必死です。おかげで、アナウンサー試験の面接で『いまこの場で5分間、授業を見せてほしい』と言われたときも、ひょうひょうとやり切れました。塾講師という仕事は、誰もいない教室で板書をして、想定した質問を自分で言って答えるという“エア授業”で予習をするので、ひとり演技の授業に慣れていたんですよ(笑)」

その時々で選んだことが役に立ち、いまの報道記者への道につながってきた右松さんの人生。そして、まわり道をして夢を実現させたからこそ、40歳を目前にしても、情熱的な思いを心に持ち続けられるのかもしれません。右松さんは、今でもなお夢に対して真摯に向き合い続けています。

「現在担当している国会では、公文書の改ざん問題やセクハラ問題、また野党再編で国民民主党が旗揚げされたりと、現場は日々目まぐるしく変化をしています。そんな現場をまわりながら取材をしていて思うことがあるんです。それは、『いま、自分はこれまでとちがう筋肉を鍛えているんだな』ということ。ニュース番組に出演して原稿を読むキャスターがアウターマッスルだとしたら(外側)、現場を見て伝えるための原稿を書く報道記者はインナーマッスル(内側)が必要な仕事。きちんとインナーマッスルを鍛え終えたら、僕の夢の原点に近づけるかもしれませんね。湾岸戦争のニュースでバグダッドから現地の様子をリポートしていた、サファリジャケットを着たあの記者のように……。どんなできごとも果敢に取材して伝えられるような報道記者になるために、僕はまだいまも夢をつかむ道を歩んでいる最中なのかもしれません

前編はこちら→

■ 日本テレビ報道局政治部記者・右松健太さん インタビュー一覧
第1回:【夢のつかみ方】(前編)~評価を得るために仕事と向き合った13年間~
第2回:【夢のつかみ方】(後編)~報道記者として鍛えながら、なおも夢を追い続ける日々~
第3回:【テレビと子どものいい関係】~テレビは、子どもと社会をつなぐ「窓」の役割~
第4回:【学習における動機の大切さ】~偏差値40からの逆転!~

【プロフィール】
右松健太(みぎまつ・けんた)
1978年11月6日生まれ、東京都出身。2003年に日本テレビに入社し、アナウンサーとしてバラエティや情報番組やニュースなどを担当。2010年4月よりニュース番組『NEWS ZERO』のキャスターとして、政権交代や沖縄基地問題、東日本大震災などの現場を取材した。2016年6月より報道局に異動し、日本テレビの記者として日々取材を続けている。