2000年のシドニーオリンピックで、200m背泳ぎ4位入賞という輝かしい成績を持つ、『ハギトモ』の愛称で知られる萩原智子さん。その栄光の裏には、一度はオリンピック出場を逃したときに味わった挫折や、誹謗中傷を受けたこともあったそうです。
ですが、その苦い経験を乗り越えられたのも、水泳が結んだ“縁”でした。水泳に出会うきっかけを与えてくれた親の言葉、挫折を乗り越えられた友人の存在、そして指導者との出会い――。萩原さんが両親にしてもらった経験、そして、水泳で夢をつかみたいと頑張る子どもを持つ親はなにができるのかを含めて、夢のつかみ方をじっくりと語ってもらいました。
親ができるのは子どもに経験を与えることと、やりたいことを頑張るための環境づくり
萩原智子さんが水泳を習いはじめたのは、小学2年生の夏のこと。家族で出かけた海水浴で溺れた出来事がきっかけでした。でも、じつは溺れたことよりも、その後にかけられた父の言葉が水泳をはじめる大きな要因だったと言います。
「溺れかけたとき、近くに父がいたのですがなかなか助けてくれなかったんですね。『なんで助けてくれなかったの!?』と言うと、『泳いでいると思ってうれしかった』と言われました(笑)。笑いごとではないのですが、それを言われた瞬間に怖かったというよりも悔しい思いが溢れてきたのです。それで『絶対に泳げるようになりたい!』と思い、自分から『スイミングスクールに通いたい』と親にお願いしたのです」
小さなころから、書道、ピアノ、絵画、英会話、クッキング教室など、両親は習い事をたくさん経験させてくれたそうです。ですが、萩原さんはどれも3カ月と続きませんでした。そんな経緯があったことから『水泳をやりたい』と言っても、「またすぐに辞めるんでしょ?」と母親は反対しました。
「でも、父がはじめて『自分から習いたい』ってわたしが言ったことに気づいてくれて、母を説得してくれました。それと同時に、父は『やるって決めたら、最後までやり抜きなさい』という言葉をかけてくれました」
萩原さんは、その言葉をしっかりと当時の日記に書き記したそうです。「子どもながらに大切なことだと思ったんでしょうね」と笑いながら話してくれました。
「両親は習い事だけじゃなくて、キャンプやコンサートにも連れて行ってくれて、さまざまな経験をさせてくれました。そうやって連れて行ってくれたなかの海水浴で水泳をはじめるきっかけに出会い、自分で水泳をやることを選びました。だからわたしも、自分の子どもにもスポーツはもちろん、絵を描くとかなにかをつくるでもいい、とにかく積極的にやらせたいですね。そのなかで、自分の好きなものを見つけてくれればいいと思うんです」
両親はその後、萩原さんの水泳人生を影で支え続けます。朝と夜に2回練習がある日は、温かいお弁当を食べさせてあげたいという母親が、朝練習の終わるタイミングを見計らってお弁当をつくり、父親がスイミングスクールまで届けてくれたそう。もちろん、試合会場に応援に駆けつけたりしてくれました。練習で疲れて帰ってきたときには、お風呂上がりに父親がマッサージをしてくれたそうです。
「いま思うと、『わたしは自分の子どもに同じことができるかな?』と思うくらいのことをやってくれていた。ですから、両親には心から感謝しています。両親は、技術的なことやレースに対して意見を言うことはありませんでしたね。家では、練習や試合に向けてわたしが頑張れる環境をつくることに徹してくれました。わたしも自分の子どもには、同じように子どもが自分で決めたことを頑張り抜けるようなサポートをしていきたい」
◆小学校6年生の夏「とびうお杯」にて(写真右が萩原さん)
ポジティブな人に囲まれて、ネガティブな自分がポジティブに変われた
水泳を始めて一気に広がった世界で、萩原さんはオリンピック出場という夢を抱くきっかけをもらいます。
「同じスイミングスクールで、日本代表の選手が練習していました。その姿を見て、『かっこいいな』『わたしも日の丸の入った水着を着たいな』と憧れを持ったのが、大きな夢のはじまりとなったのです」
大きな夢に向かってひたすら練習を繰り返し、気づけばオリンピックに出場できるチャンスが目の前にあるほどの選手として成長します。ですが、萩原さんはそこで大きな挫折を味わいました。
「1996年のアトランタオリンピック前、日本ランキングで2位のタイムを出したことでいろいろな人から『智ちゃん、オリンピックに行けるね!』と言われるようになって、少し天狗になってしまったんです。コーチの言うこともろくに聞かず、練習も真面目にやらず……困った選手でした。コーチに、『帰れ!』と言われたら、機嫌が悪くなって本当に帰ってしまうくらいでしたから(笑)」
そんな反抗期真っ盛りの萩原さんを救ったのは、中学時代から現在も交流が続く親友の言葉でした。
「ちょうど中学校を卒業する前くらいのときです。わたしが『練習に行きたくない』とか『コーチがむかつく』ということばかり言っていたら、その子が突然泣きながら『智子がオリンピックに行きたいって言ったんでしょ! 情けないよ、頑張りなよ!』と言って、走って帰ってしまったんです。15歳くらいの年齢だと、友だちに怒るなんてことはなかなかできませんよね。でも、その子は本気でわたしを叱ってくれたのです。衝撃的でしたね。わたしも泣きながら家に帰りました。家に帰って冷静に考えたら、アドバイスでも励ましでもなく、叱ってくれた友人のことを『凄いな』と思いましたし、甘えていたということにも気づかされました。それからは、本当に練習を頑張りましたね。結果としてアトランタオリンピックには出られませんでしたが、彼女の言葉があったからこそ、その後もあきらめずに練習を続けて頑張ることができたのだと思います」
そんな挫折から4年後の2000年、ついに夢だったシドニーオリンピックの出場権を獲得した萩原さん。注目を集めると同時に、誹謗中傷を受けることも少なくなかったと言います。
「いいことの反面、嫌なことを言われることもあって……わたしは凄くメンタルの弱い人間なので、悲しくて泣くこともありました。でも、母が『言われてよかったのよ。成長できたのだから、感謝しなさい』と笑って言うのです。それを聞いてわたしも『ああ、そうだな』ととても気持ちが楽になりました。わたしがポジティブな考え方を持てるようになったのは、母や友人、それから指導者といったわたしを支えてくれた周りの人たちがポジティブだったから。本当に感謝していますし、またそういう人たちに出会えたのも水泳をしていたからこそ、です。水泳は、良い経験も辛い経験も含めて、たくさんの経験をわたしに与えてくれました。できないことができるようになるよろこび、挫折を乗り越える力が養われたこと、大切な人との出会いをくれたこと。子どもからきちんとした大人に成長できる環境をつくってくれるのが親であり指導者であり、スポーツなのだと思います」
◆水泳教室で子どもたちに水泳の楽しさを伝える萩原さん
■ 元水泳日本代表選手・萩原智子さん インタビュー一覧
第1回:「習い事としての水泳をオススメしたい5つの理由」
第2回:「子どもたちに持ってほしい水への感謝」
第3回:【夢のつかみ方】(前編)~ずっと支え続けてくれた、両親への感謝~
第4回:【夢のつかみ方】(後編)~目標を達成するために“覚悟”を持つ!~
【プロフィール】
萩原智子(はぎわら・ともこ)
1980年4月13日生まれ、山梨県出身。山梨学院大学付属高校~山梨学院大学~山梨学院大学院。小学校2年生のときに、海で溺れたことがきっかけで水泳をはじめる。2000年のシドニーオリンピックには200メートル背泳ぎと200メートル個人メドレーで出場し、ともに決勝進出を果たし入賞。2004年に一度は引退するも、2009年に現役復帰を果たし2010年には日本代表に返り咲く。2012年のロンドンオリンピック選考会後に2度目の引退。現在は、一児の母として子育てをしながら日本水泳連盟理事を務める他、テレビ・ラジオ出演や水泳の解説、講演活動、ライターとしても活躍中。また、水泳教室に加えて「水の大切さ」 や「水の教育」にも取り組む、水でエデュケーション・コミュニケーションする『水ケーション』の活動にも注力している。また、山梨県、福島県、愛知県で水泳大会『萩原智子杯」も開催している。
【ライタープロフィール】
田坂友暁(たさか・ともあき)
1980年生まれ、兵庫県出身。バタフライの選手として全国大会で優勝や入賞多数。その経験を生かし、水泳雑誌の編集部に所属。2013年からフリーランスとして活動。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆。また映像撮影・編集も手がける。『スイミングマガジン』で連載を担当する他、『DVDレッスン 萩原智子の水泳 基礎からチャレンジ!』、『DVDレッスン 萩原智子のクロール 基礎からチャレンジ!』(ともにGAKKEN SPORTS BOOKS)、『呼吸泳本』、『明日に向かって~病気に負けず、自分の道を究めた星奈津美のバタフライの軌跡~』(ベースボール・マガジン社)などの書籍も多数執筆。