からだを動かす/体操 2018.3.10

【夢のつかみ方】元体操日本代表選手・田中光さん(中編)~父の突然の死、そして体操選手としての挫折~

【夢のつかみ方】元体操日本代表選手・田中光さん(中編)~父の突然の死、そして体操選手としての挫折~

小さなころから活発で、誰に教わったわけでもないのに側転をするような少年だった田中光さん。「人との出会いは偶然ではない」という、母の直感から、東京オリンピック・金メダリストである遠藤幸雄先生と同じ体操の道へ進みます。

前編では、片道2時間以上もかかる体操教室への送迎や、体操をやるための土台づくりとして、いろいろなスポーツを習わせてくれた母への感謝などを話してもらいました。中編では、父の突然の死や数々の故障という苦しかった経験、そしてその克服について語っていただきます。

突然降りかかった予期せぬ父の死――そして、数々の怪我を克服

――清風中学校で全国制覇し、そのまま一貫校で体操競技の名門・そして具志堅先生の母校でもある清風高校に進学。ここまで順風満帆のように見えますが、挫折や辛かったことはありましたか?

田中さん:
辛かったことがふたつあります。ひとつは清風高校1年生のときに、父がクモ膜下出血で突然他界してしまったこと

父は脱サラして事業を立ち上げた人で、わたしのことを誰よりも応援してバックアップしてくれていました。わたしも、「さあ、ここから高校でさらに上を目指そう」と思っていたタイミングです。これからどうしたらいいのか……実家には母と妹だけですから、自分が高校も体操も辞めて家族を養っていかなければいけないのではないかとずいぶん悩みましたね。このときは本当にきつかった……。

しかし、母はもちろんのこと、多くの方たちから励ましや応援をいただき高校生活を続け、1989年の全国高校選抜体操競技大会で個人総合・鉄棒優勝1989年の国際ジュニア体操競技大会で個人総合・鉄棒優勝1990年の全国高校選抜体操競技大会で個人総合優勝という成績を挙げることができました。

ふたつめの辛かったことは、怪我が多かったこと事実、そのためにオリンピック出場を逃してしまいました。わたしは高校卒業後、筑波大学に進学しました。ちょうど1992年にバルセロナオリンピックが開催されることもあり、父の墓前に報告するためにもオリンピック出場を目指して日々練習していました。

しかし、オリンピックの前年に練習のし過ぎで第一肋骨を疲労骨折してしまったのです。オリンピック予選前ですから、本来なら一番追い込まなければいけないときに練習ができず、結局、バルセロナオリンピックは怪我と練習不足が重なって、予選会には出場しましたが僅差で出場を逃しました。

さすがに絶望感でしばらくは体操の練習もやる気が起きませんでしたが、それまで応援してくれた方々のために、筑波大学を卒業後は日本体育大学大学院に進学し、心機一転、4年後となる1996年に行われるアトランタオリンピック出場を目指しました

元体操日本代表選手・田中光さんが語る「夢のつかみ方」(中編)2

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怪我をかばってくれた母は、非常にありがたい存在だった

――なぜ怪我が多くなってしまったのでしょうか?

田中さん:
理想主義者だったわたしは、強い選手が目の前にいると「自分もその選手のようになりたい!」と強く思い、どんどん難しい技に挑戦していました。でも、難度の高い技をやるには基礎トレーニングを行ってきた時間が他の選手に比べて少なかったのです

本来であれば小学校低学年からコツコツと時間をかけて体操選手の身体をつくっていくのですが、小学校の間はほとんど体操をやっていませんでした。ですから、スポーツをやる基本は学べていましたが、コツコツと体操に必要な身体をつくる作業が足りていないまま中学校に進学したことで、じつは細かい基礎トレーニングはできていなかったのです。

――確実と思われていたバルセロナオリンピックへの出場が叶わず、怪我にも悩まされ、辛い時期が続いたと思います。そんなとき、お母さんからなにか言われたことはありましたか?

田中さん:
母はいつもどんなときも明るく頑張ってくれました。勝負の世界ですから本当は強く言われてもおかしくないと思いますが、「体操を絶対に続けなければいけないわけではないのだし、それでもやりたければ怪我をしっかり治して思い切ってやりなさいね」とかばってくれたことは非常にありがたかった。

母にも、「もっと頑張りなさい!」というように言われていたら精神的にも追い込まれていたのではないかと思います。

後編に続く→

写真◎榎本壯三

■ 元体操日本代表選手・田中光さん インタビュー一覧
第1回:【夢のつかみ方】(前編)~勉強熱心な母に感謝、運動能力の土台構築~
第2回:【夢のつかみ方】(中編)~父の突然の死、そして体操選手としての挫折~
第3回:【夢のつかみ方】(後編)~伸びる子は必ず持っている“我慢する”力~

【プロフィール】
田中光(たなか・ひかる)
1972年7月19日、和歌山県に生まれる。大阪・清風中学校、清風高校卒業後、筑波大学を経て日本体育大学大学院修了。さらに、兵庫教育大学大学院にて博士(学校教育学)の学位取得。体操は3歳からはじめるも練習環境に恵まれず本格的に体操の練習をはじめたのは中学校から。大阪の体操の名門である清風高校に入学すると、1989年全国高校選抜体操競技大会:個人総合・鉄棒優勝。1991~1995年まで全日本選手権にて平行棒5連覇を果たす。1995年の世界体操選手権では、団体で銀、種目別平行棒で銅メダルを獲得。1996年にはアトランタオリンピック体操日本代表として出場。平行棒ではオリジナル技(懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持)を成功させ、F難度の『TANAKA』として認定された。引退後はオペラや舞台界でも活躍。タレント活動の他、白百合女子大学では初等体育科指導法、器械運動を担当、流通経済大学教授として幼少児教育・健康教育・介護予防などをテーマとした研究、指導を行っている。また、自身がプロデュースする会員制のクラブ 田中光体操クラブ『TAISO LAND』でも子どもたちに体操を指導している。おもな著書に、『ヒカルくんのスポーツのコツ絵事典―体育が好きになる!』(PHP研究所)、『子どもの体育』(ふくろう出版)、『母と子の1分体操』(海竜社)、『ひかる先生のやさしい体育』(PHP研究所)などがある。

【ライタープロフィール】
田口久美子(たぐち・くみこ)
1965年、東京都に生まれる。日本体育大学卒業後、横浜YMCAを経て、1989年、スポーツ医科学の専門出版社である(有)ブックハウス・エイチディに入社。『月刊トレーニング・ジャーナル』の編集・営業担当。その後、スポーツ医科学専門誌『月刊スポーツメディスン』の編集に携わる他、『スピードスケート指導教本[滑走技術初級編]』((財)日本スケート連盟スピードスケート強化部)などの競技団体の指導書の編集も行う。2011年10月「編集工房ソシエタス」設立に参加。『月刊スポーツメディスン』および『子どものからだと心白書』(子どものからだと心連絡会議)、『NPBアンチドーピング選手手帳』((一社)日本野球機構)の編集は継続して担当。その後、『スピードスケート育成ハンドブック』((公財)日本スケート連盟)の他、『イラストと写真でわかる武道のスポーツ医学シリーズ[柔道編・剣道編・少林寺拳法編]』(ベースボール・マガジン社)、『日体大ビブリオシリーズ』(全5巻)を編集。現在は、スポーツ医学専門のマルチメディアステーション『MMSSM』にて電子書籍および動画サイトの運営にも携わる。